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動物は植物よりも偉いのか?ベジタリアンへの違和感と漫画「銀の匙」

漫画「銀の匙」が3巻無料だったので、読んでみました。

この漫画を通して、これまで動物権利愛護者に感じていた違和感が

少しはっきりしたので、今回の記事では、そのことについて語ります。

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アメリカの動物権利愛護者

以前の記事でも書きましたが、

私の博士課程の指導官が、熱烈な動物権利愛護者でした。

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その教授は、人格的にも素晴らしく、教育者としても一流、

学者としても、めちゃくちゃ頭の良い方です。


すごく良くしていただいたので、頭が上がらないほどの恩があるし、

心の底から、尊敬しています。


ただ、その教授に教えを乞いていた大学院生の頃から

どうしても動物権利愛護者に対して感じる違和感がありました。

私の違和感

今回、漫画「銀の匙」を読んだことで、その違和感がはっきりした気がします。

銀の匙 Silver Spoon 3 (少年サンデーコミックス)

銀の匙 Silver Spoon 3 (少年サンデーコミックス)

その違和感とは、ずばり

「どうしてあなたが食べて良いもの、食べていけないもの、

殺してよいもの、殺していけないものを決められると思うのか?

それこそが、人間の傲慢ではないだろうか?」ということです。

アメリカの菜食主義者

菜食主義者も、様々な種類があるし、

特にインド系の方は、長い歴史があるので、一概には言えないのですが、


アメリカのベジタリアンは、近代啓蒙主義の流れにのっとって、

「殺す動物がかわいそうだから、動物を食べない」という方が多い気がします。


私はそれに関しては、すごく違和感がある。

その人たちは、動物は食べなくても、野菜は食べるわけでしょ?


どうして動物を殺すのはかわいそうで、

植物を殺すのはかわいそうじゃないんだろう?


殺していい生命(植物)と殺していけない生命(動物)を、

そんなに簡単に機械的に決めていいんだろうか?

それこそが、「人間の傲慢」なんじゃないだろうか?

肉は食べないけど魚は食べる理由

アメリカに来たばかりの時に、

「肉は食べないけど魚は食べる」というベジタリアンの人にあった。


理由を聞いたら「動物は食用に殺す時に痛みがあってかわいそうだけど、

魚は痛覚が発達していなくて、痛みがないから、殺して食べてもいい」という回答で、

ものすごく違和感を感じた。


それは、たぶん私が日本人で、魚が水から揚げられて呼吸ができなくなった時に、

思いっきりバタバタして苦しそうな姿を知っているからだと思う。


アメリカ人のその人は、そんな姿を見たことがなかったのかもしれない。

文化背景の違い

そのような文化背景の違いから、

頭がついたままの焼き魚などを気味悪く思うアメリカ人も多い。


焼き魚と目が合うのが、薄気味悪いらしくて、

煮干やしらすなどを頭からボリボリ食べる日本人は野蛮人に思えるらしい。


そういう面で、私は捕鯨禁止を訴えるアメリカ人団体にも違和感を感じる。

「クジラが絶滅危惧種だから、保護しよう」というまでは良い。


しかし「クジラやイルカは哺乳類で知的生命体だから、食べてはいけない」

「魚は魚類で、下等生物だから捕食してもいいし、養殖しても良い」

という区別には違和感を感じる。


「頭が良い生物は殺してはいけないが、頭が悪い生物は殺して食べてもいい」

「哺乳類は殺して食べてはいけないが、魚類は殺して食べても良い」というのは、

違和感がありまくりだ。

恣意的な境界線

そもそも「哺乳類だから、食べてはいけない」というのだったら、

「クジラやイルカは駄目で、ウシやブタは良い」というのは、

単なる歴史的・文化的背景の違いに過ぎない気がする。


日本人だって、鎖国を終えて「文明開化」をした時に、

西洋人が「ウシやブタ」などの「四つ足の獣」を食べるのに、びっくりした。


それまでの日本では、

そのような獣を食べるのは「野蛮人」だと思われていたからだ。

日本の獣肉食の歴史 - Wikipedia

とにかく私が動物権利愛護者に感じる違和感とは、

「食べてよいものと食べていけないものをラインは、論理的には決められない。


よって、その境界線は主観的であり、恣意的である。

(簡単に言えば自分勝手に決めているだけ)


そのような恣意的な境界線を決めるのは人間の傲慢で、

しかもそれを他人に押し付けようとするのは偽善的だ。」


ということに尽きると思う。

他者を見下す菜食主義者

自分でいろいろ葛藤して、

自分のポリシーとして「◯◯を食べない」と決めるのはよいが、

それを他人に押し付けるのは別問題だ。


私が出会ったアメリカ人の菜食主義者は、

菜食主義者でない人を意識的にしろ無意識的にしろ見下していて、


「(肉を食べない)自分の方が(肉を食べる他の人より)教養がある、

地球や動物に優しくて、倫理観の高い人間だ」という

自己満足に浸っているだけのような気がする。


私は「人を見下した分だけ、自分が人から劣った人間になる」と思っているので、

そういう人たちは、正直バカだなと思う。

生命を差別するな

私個人は、動物であれ植物であれ、生命というものを差別すべきではないと思う。

どんなに完璧なベーガン(乳製品も食べない究極のベジタリアン)でも、野菜は食べる。


野菜を食べるというのは、他の生命(野菜)を捕食して、

自分の生命を生きながらえさせているということだ。


そういう意味では「食べる」というのは

「他の生命を自分の為に殺す」という行為であり、

「何かを食べなければ生きられない」という地球上の生物全ては、罪深い存在なのだ。


私が菜食主義者を偽善者だと思うのは、

「動物は食べてはいけないけど、植物は良い」などと決めて、


「生きるというのは、動物であれ植物であれ、他者の生命を犠牲にすること」

という罪深さを、誤魔化しているように感じるからだ。

許容できる菜食主義

私が許容できる菜食主義は、アフリカやアジアなどの貧困地域に経済発展と共に、

人口爆発が起きて、地球上の人類全員の分の食料が手に入らなくなるから、


大規模な餓死を回避するための食料問題解決として、

肉食をやめてなるべく野菜を食べましょうというのなら、論理的だと思う。


ちなみに、もしご存知でないなら、同じ量のカロリーを摂取するなら、

菜食の方が肉食の9倍ほど、食料生産の効率がいい。

www.chikyumura.org

そのような科学的・論理的な理由以外の

「動物がかわいそうだから、食べるのをやめましょう」などは、

たんなる感情論の感傷主義に過ぎない。


それを違う文化圏で育った違う価値観の人間に押し付けるのは、

本当に止めてほしいと思う。

まとめ

今回の記事では、これまでアメリカのベジタリアンに感じていた違和感が

漫画「銀の匙」を通して、少しはっきりしたので、

そのことについて書きました。


少しでも思考の糧になれば嬉しいです。

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