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あなたは誰かの死が自分の責任だと感じた時にどうするか?

どうも、Glocal Lifeです。

今回の記事では、

死の問題を考えてみたいと思います。

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スイッチの弟の死

前回の記事で紹介したSKET DANCEは、

1〜5巻まで期間限定で無料でした。

www.glocallife.net


今回、初めて読んでみたんですが、

5巻の最後のスイッチの弟の死は、衝撃的でしたね。


弟の死を「自分のせいだ」と感じたスイッチは、

声を失い、引きこもってしまいます。

SKET DANCE 5 (ジャンプコミックス)

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誰かの死が『自分の責任』

この「誰かの死が『自分の責任』だと感じた時にどうするか?」というのは、

私はずっと引きずっていた疑問なんですね。


姉が小学校5年生の時から登校拒否になって、

そのまま引きこもりニートになったので、


姉が精神的に不安定になった時に、

「お姉ちゃんが自殺したらどうしよう?」って

10歳ぐらいの時から、心の片隅でずっと考えてました。

自殺する権利はあるのか?

なので、自殺の問題も興味はありますね。


人は自らの生に絶望した時に、

自分の意志で、その生命を終わらせる権利はあるのかどうか?


これもすごく難しい問題だと思います。

人は皆、生まれながらの死刑囚

死の問題も、すごいドライに考えれば、

人間を含めて生き物は皆、いつかは死ぬんですよ。


哲学者であるパスカルは、

「人は皆、生まれながらの死刑囚である」と言いました。


また「死より確実なものはなく、死期より不確実なものはない」とも。

人間は生まれながらの死刑囚/パスカル

死は身近な問題

「人は皆、生まれながらの死刑囚である」が、

その死刑が実行される日は、

直前まで誰にも分からない。


今日かもしれないし、明日かもしれない。

10年後かもしれないし、50年後かもしれない。


そう考えると、死というのは、

本当に身近な問題だと思います。

死を忘れた文明

ただ近代文明を「死を忘れた文明」と喝破したように、

近代になってから、急速に死は生活の外に追いやられてしまった。


昔は自宅で死ぬのが当たり前だったのに、

今はほとんどの人が病院で死を迎えるのではないだろうか?


また核家族化が進んで、

高齢の祖父母と同居するのも減り、


「生老病死」の「老」「病」「死」を

身近な生活でなかなか実感できなくなったのではないだろうか?

母親の死が自殺だったのか?

自殺について考える時、

思い出す名シーンがある。


「家政婦のミタ」で、

子供たちが母親の死が自殺だったと知る場面だ。

「家政婦のミタ」DVD-BOX

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母親の自殺の動機は、父親の不倫だったので、

ここで、家族がバラバラになってもおかしくない場面で、

三田は「母親の死は自殺ではなかった」と言う。

自殺ではなく事故なのか?

たとえ、遺書も書いて、死ぬつもりで川に入水しても、

最後の最後の瞬間で、子供達を思って死にたくなかったんだと。


だから母親の死は、自殺ではなく事故なのだと、

三田は子供達を説得する。

詭弁なのか?

私は、初めてこの場面を見た時に、

正直、詭弁だと思った。


母親が死の瞬間に何を思っていたかは

誰にも分からない。


もしかしたら、不倫した夫を恨んで憎んで死んだのかもしれない。

生きている人間には希望が必要

だた母親が最後の死の瞬間に、何を思っていたかは

誰にも分からないからこそ、


母親の死を乗り越えて、これから生きていく人間(子供達)には

希望が必要なんだと思う。


そして母親が最後の瞬間に、

自分たちを思って「死にたくない」と思ってくれたと思うことが、

これから生きていく子供たちの希望になるのなら、

それが真実だろうが、真実じゃなかろうが、

どちらでも良いと思う。


酷いようだけど、大事なのは、これから生きていく人間なのだから。

死の瞬間に何を思うか?

ただ、私個人は、母親が最後の死の瞬間に

子供達を思って「死にたくない」と願ったというのは、

かなり高い確率で真実ではないかとも思う。


私が自殺を全面的に肯定できない理由もここにある。


どんなに自分が納得して、死のうと思っても、

最後の最後の死の瞬間には、

自分の肉体が「死にたくない」と抵抗するのではないだろうか?


人間というのは、感情や理性の「心」の部分だけではなく、

「肉体」の部分も含めて、人間という生命なのではないだろうか?

死の準備をする肉体

事故死などを除いた自然死では、

肉体は少しずつ、死への準備をする。


ある瞬間にいきなり死ぬのではなく、

少しずつ少しずつ、肉体は死んでいくのだ。


その準備の時間を持たずに、

いきなり死ぬ場合は、肉体は生きたいを猛烈に反乱すると思う。


事故などで、本当にどうしようもない時はしょうがないが、

自ら望んだ自殺で、自分の心は自分の肉体の反乱を抑え切って、

安らかな死を迎えることは難しいように思う。

生きたいと願う肉体

それならば、どんなに「心」が死にたがっても、

「肉体」が最後の逃れられない死の瞬間まで生きたいと願うなら、

どんなに辛くても生き抜いた方がいいんじゃないだろうか?


そうじゃないと、死の瞬間に後悔するんじゃないだろうか?

自殺者の最後の瞬間

こういうことを言うのは乱暴かもしれないが、

私はほとんどの自殺者は、最後の最後の死の瞬間は、

「死にたくない」と後悔したと思う。


だから家政婦の三田が、

母親の死を自殺ではなく事故だったというのも、

それはそれの一面の真実であるように思える。


「最後の瞬間に、その人は生きようとした」

「その瞬間は自殺ではなかった」

そう思えるだけで救われる

今現在に生きている人もいるのではないだろうか?

まとめ

以上、今回の記事では、

あなたは誰かの死が自分の責任だと感じた時にどうするか?

自殺は肯定されるべきなのか?

ということを考えてみました。


大変に難しい問題なので、

今回の記事は、あくまで私の個人的な意見、

多様な意見の一つとして、ご参照ください。


皆様の思考の糧に少しでもなれば嬉しいです。

これからもGlocal Lifeをよろしくお願いします。

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