指導者の責任は徹底的に追求せよ!トップの責任が曖昧になる日本
どうも、Glocal Lifeです。
今回の記事では、指導者の責任について考えてみたいと思います。
日本の不況はトップの責任
今回の記事を書くきっかけになったツイートは、こちらです。
死ぬほど働けば昇給・昇格・ボーナスが待っている、というのならともかく、「暗黙のルール」として、そんなにみんなで残業+残業しなくてはならない状態が会社で慢性化してるって、それ、Managerial Failure(経営上の失敗)以外のなにものでもないと思うのよね、わたしは。。。
— TrinityNYC (@TrinityNYC) 2016年8月22日
責任の所在がうやむやになる日本
「経営上の失敗以外のなにものでもない」に全面同意。
日本の企業を見ていると、企業幹部が無能だから、
そのしわ寄せが若者にいっているだけなのに「一億総懺悔」みたいな感じで、
責任の所在がうやむやになっているのが一番の問題ではないかと思う。
自己責任と社会の責任の半々
以前の記事で、
自己責任と社会の責任の半々ぐらいが、
人間としてのバランスが取れてるのかなと書いた。
個人の場合は、それでいいけど、
他の人を率いる立場にある指導者の責任は、
厳しく追求すべきだと思う。
欧米とは正反対の日本社会?
ナチスの戦争犯罪の追求が、今でも続いているように、
欧米社会では、指導者の責任追求には厳しい。
日本では、
他の人を率いる立場にある人間の責任は曖昧に濁して、
社会的に弱い立場にいる人の責任を追求するのを
よく目撃する気がする。
「一億総懺悔」の欺瞞
私は戦後の「一億総懺悔」という言葉に欺瞞を感じる。
戦犯になった岸信介が、戦後、一国の首相に返り咲き、
その孫が、また首相になる国って、不思議だなと思う。
ドイツだったら、ナチスの幹部が
戦後、政治家として復活することは不可能だし、
その孫が、首相になることも難しいだろう。
指導者は感情で判断を下してはいけない
「戦犯になったのも、あの時代だったら仕方がなかったんだ」
という気持ちは理解できる。
しかし、それは心情であり、感情である。
一個人としては、それでいいかもしれないが、
他の人を率いる立場にある人間は、
自分自身の感情で、判断を下してはいけない。
「あの時代だったら仕方がなかったんだ」という言葉で、
ナチスの犯罪を許してはいけないように、
指導者の責任の追求は、感情の問題を脇に置いて、
善悪と損得について、考えなければいけない。
価値基準を持たない日本人
日本人が、指導者の責任を追求できないのは、
責任を判断するための価値基準を持っていないからではないだろうか?
価値基準を持っていなければ、
何が良くて、何が悪いのか判断できない。
価値基準を持たずに、判断しようとすると、
感情に流されてしまうだろう。
日本人が、論理的な判断が苦手なのは、
価値基準の基盤となる個人個人の信念が
確立していないからではないだろうか?
ちなみに私個人の判断基準については、
こちらの記事にまとめてあります。
まとめ
以上、今回の記事では、
指導者の責任について考えてみました。
多様な意見の一つとして、
少しでも皆様のご参考になれば嬉しいです。
これからもGlocal Lifeをよろしくお願いします。