テレビの内向き国家主義:アメリカの大衆娯楽比較まとめ(その2)
以前の記事では、アメリカの大衆娯楽比較まとめのパート1として
米国映画のグローバル戦略について論じた。
今回の記事では、米国テレビの内向きのナショナリズムについて述べてみたい。
米国テレビの内向きのナショナリズム
以前の記事で論じた「フロンティア精神」溢れる映画界に比べて、
アメリカのテレビ界は、往年のモンロー主義のような
外に一切の興味を持たない「内向きのアメリカ」を象徴しているように思える。
そもそも、どこの国でも、基本的にテレビという媒体は、
国家のナショナル・アイデンティティーを支えるのに大きな役割を果たしている。
ベネディクト・アンダーソンは、国家とは「想像の共同体」だと喝破したが、
現代社会で、その「想像の共同体」を支えているものは、テレビなのだ。
定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)
- 作者: ベネディクト・アンダーソン,白石隆白石さや
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テレビの同化圧力
私は、日本にいる時もテレビという媒体が苦手だったが、
その理由を考えてみると、テレビの強い同化圧力が苦手だったように思う。
私が敏感すぎなだけなのかもしれないが、テレビを見ると、
「日本(またはアメリカ)の皆は、このように考えている」
「日本(またはアメリカ)の皆は、このようなことに興味を持って、これが人気だ」
などという様に、同調しなければいけないというプレッシャーを感じる。
日本は、もちろん同化圧力が強い社会だが、アメリカも違う面で負けていないと思う。
アメリカへの忠誠心
以前の記事の中で、「アメリカは一つになること以外のイデオロギーを持たなかった」
という一文を紹介したが、アメリカは元々雑多な移民国家だったせいか、
「アメリカ」という国への忠誠心を強要する。
言わば、日本のように生まれや育ちは問わないが、
(日本では血統主義が大きな問題だから、未だに在日問題がくすぶり続けている)
アメリカの普遍的な理想に忠誠を捧げられる者は、アメリカ人になる権利があり、
そうでない者は、アメリカから立ち去るべきだという考え方だ。
私は以前、アメリカのシアトルからカナダのバンクーバーまで、
国境を越えて移動したことがあるが、車で数時間の距離なのに、
アメリカでは絶えず無意識に晒されていた同化圧力が、
カナダではアメリカに比べるとそれ程感じないことに驚いたことがある。
(まあバンクーバーがアジア系の多い国際都市だということもあるかもしれないが)
次回へ続く
映画やテレビと比べると、私の中では、演劇はローカルな運動に感じる。
分かりやすく纏めると、このような感じだろうか。
映画=グローバル
テレビ=ナショナル
演劇=ローカル
長くなったので、続きは次回に譲りたい。