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人と対話をするためには自分と対話できないと無理だと思う4つの理由

これまでの人生で、様々な人に出会ってきたが、最近つくづく思うのは、

自分自身の心と対話できない人は、人とも対話できないということだ。

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「自己との対話」で思い出すエピソード

「自己との対話」と聞く度に、思い出す話がある。
学生時代に恩師に教えてもらった釈尊のエピソードだ。

以下、思い出せる限りの恩師の言葉を引用したい

1. 平和とは「開かれた対話」から始まる

古来、仏教が平和のイメージに彩られている最大の理由 は、
暴力を排し、なべて対話や言論を徹底して重視しているからだ。

ある仏典が釈尊を「喜びをもって人に接し、
しかめ面をしないで顔色はればれと、
自分から先に話しかける人」と しているように、

その生涯は、一切のドグマから解放された
「開かれた心」による「開かれた対話」に貫かれてた。

生き生きした人間・釈尊のイメージ

私は「喜びをもって人に接し、しかめ面をしないで顔色はればれと、
自分から先に話しかける人」という釈尊のイメージが大好きだ。

これまで仏像とかのモヤモヤしたイメージしかなかった釈尊が、
一気に生き生きとした一人の人間として身近に感じる。

2.「差異へのこだわり」が苦悩の原因

なぜ、釈尊が対話にあって自在でありえたのか?

それ は、この覚者の広大な境涯が、
あらゆるドグマや偏見、執着から自由であったからだ。

釈尊の言葉に「私は人の心に見がたき一本の矢が
刺さっているのを見た」とある。

「一本の矢」とは、
一言にしていえば"差異へのこだわり"といってよいだろう。

当時のインドは、大いなる変革期で、悲惨な戦乱が相次いでいた。

釈尊の透徹した眼は、 その争乱の根底に、
何よりも部族や国家などの差異へのこだわりを見いだしていた。

当時のインドと今の世界

う〜ん、これは深いな〜

「差異へのこだわり」が苦悩の原因って喝破する釈尊は、
やっぱり普通の人とは目の付け所が違うな。

さすが、死後2500年経っても、人々の心に残っている人だ。
私なんて死後数年から10年ぐらいで、誰からも忘れ去られてる自信がある(笑)

釈尊の生きた当時のインドは、ある意味、
今のグローバル化された世界を彷彿させる。

3. 差別意識の克服がカギ

「民族」であれ「階級」であれ、克服されるべき悪、
すなわち「一本の矢」は、外部というよりまず自分の内部にある。

ゆえに、人間への差別意識、差異へのこだわりを克服する ことこそ、
平和と普遍的人権の創出への第一義であり、
開かれた対話を可能ならしむる黄金律なのだ。

また、 そうあってこそ、
相手の性分や能力に応じて法を説く自在な対話も可能になる。

克服されるべき悪は自分の内部

う〜ん、これも深いな〜

「克服されるべき悪は、外部というよりまず自分の内部にある」なんて
ある意味、究極の思想だと思うけど、私は共感するな。

「悪を外部に求める思想」だと、極論を言えば、
「じゃあ、悪人を全員抹殺すれば、世の中は良くなるんじゃん!」
ってことになるけど(笑)、それはそれで間違っていると思う。

差別意識の克服が対話の基本

「差別意識を克服することが、開かれた対話の基本で、平和と人権の第一歩」
という部分は、全面的に賛成する。

むしろ、私が人と話す時に、一番大切にしている部分だと思う。

私はアメリカに15年住んで、人種差別や外国人差別を
嫌というほど体験した。

社会の少数派として虐げられる哀しみや怒りは、
経験した者にしか分からない。

だから私自身は、どんな時も、いかなる理由があっても、
誰人たりとも差別せずに、同じ人間として接したいと思う。

嫌韓・嫌中論を聞くと悲しくなる

ここだけの話だけど、私はブログで知り合った人とかが、
「韓国や中国が嫌い」って話をすると、すごい悲しくなるんだよね。

別に韓国や中国の肩を持つ訳じゃなくて、
ただ日本人の韓国人や中国人への反感や差別意識は、

私がアメリカに15年住んで嫌というほど体験した
人種差別や外国人差別と根っこが同じもののように感じるからだ。


日本と韓国や中国との間に、どんな歴史や社会軋轢があったとしても、
日本人や韓国人や中国人である前に、みな同じ人間である。

「日本人として」としか物事を見れず、
「同じ人間として」の観点を持てない人は、

自分で自分の視野を狭くしている可哀想な人だなと思う。

4. 武器を持たずに心服させる人格の力

事実、釈尊の対話の特徴は、部族間の水争いの仲裁をするときも、
凶暴な強盗を改心させるときも、
乞食行に異議 を申し立てる者の浅慮を戒めるときも、

常に内なる悪とい う「一本の矢」に気づかせることを眼目としておりました。

その類まれなる人格の力こそ、ある王をして
「世尊よ、私た ちが武器をもってさえ降伏させることのできない者を、
あなたは武器をもたずして降伏せしめる」と 感嘆させているのであります。

暴力や権力や金力に頼らない対話の力

「武器をもってさえ降伏させることのできない者を、
あなたは武器をもたずして降伏せしめる」って素敵な言葉だな。

暴力や権力や金力で、無理やり従わせるのではなくて、
対話を通して、本当にその人が心から納得して釈尊に心服したんだろうな。

まとめ

学生時代に恩師に教えてもらった釈尊のエピソードを通して、
人と対話をする前に、まず必要になる「自分の心と対話」ということについて
4つのポイントに絞って考えてみました。

何らかの形で、皆さんの参考になれば、嬉しいです。

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